年も押し詰まり、各々方多忙と思われ申し候。
朝晩の風も冷たく、北国、山国では雪の日もあるとか、かような日は暖かい鍋物を囲むと、体も心も暖まると申し候。体と心は暖まるが、懐は寒くなることもある、と申す御仁も居るようだが、それは身の程知らずに贅沢なる鍋物を食したからだ、と申すべく思われ候。
さて、鍋物と申すと、やれその具はこの具の後に入れなければならぬ、とか、この具は火を通しすぎてはならぬ、とか、この具は十分に火を通さねばならぬ、と、やたらに仕切りたがる御仁が居り、世間ではその御仁を「鍋奉行」とか申す候。一面便りにされる反面、煙たがられるとか言うこともあるとか聞き及び候。江戸でも町奉行は北町奉行、南町奉行しか居らぬが、鍋奉行はそれよりはるかに数多く、極端に申せば鍋の数だけある、とか伝え聞く候。某もそのような御仁で、やたら指図をしたがる御仁に辟易させられたことも一度や二度ではなく候。
さて、鍋で具を煮て居ると、表面になにやら灰色っぽい汚い泡のようなものが浮かび候。世間では、これを「アク」と申し候。食して障りがあるか否かは、某も実は存ぜぬが、見た目は確かによくなく候。またその鍋も美味と思われなく候。そこでその「アク」なるものを網杓子で掬い、別に用意したる碗の中の水に放し候。普通の杓子で掬うと、「アク」と共に、出汁まで掬ってしまうのでこれはよろしくなく候。
鍋を好むものの中には、この「アク」なるものを忌み嫌う御仁がおり、少しでも「アク」が鍋の表面に浮かぶと、頼まれもせぬのにせっせと「アク」を掬い取り候。かようにして、時として共に鍋を囲む仲間の顰蹙を買うこともあり候。実は某もその一人にて候。
かような御仁を指して、誰が名づけたかは存ぜぬが、「アク代官」という言葉が生まれ候。おそらく、テレビや映画の時代物に出てきて悪徳なる商人と結託して、民百姓をないがしろにし、私腹を肥やす「悪代官」のもじりと思われ候が、本人は私腹を肥やす、いや、まあ、確かに食しているから、全くかような気はないとは言えぬが、共に鍋を囲む仲間と、美味なる鍋を食したい、と思念の上、「アク」を合間にせっせと掬って居るので、「悪」ではないと思い候。
君に問う、「『アク』を掬うは『悪』なり哉?」
ここまでの長文、お付き合い賜り、某、感謝の念を申し上げ候。
最後に「アク代官」なる言葉を発明した御仁に、一言申し上げて、この文を締めさせていただきたく候。日本テレビで放送中なる「笑点」の後半のコーナー、「大喜利」にて林家木久藏なる落語家の回答のようで、いささか気がひけるが、やはりこのように申すしかなく思われ候。
「主も悪よのぉ」
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