比較文化論の真似事にもならないこと
ここ最近落語関係の記事は書いていないが、相変わらず落語は好きである。
先週の日曜は上野鈴本→徳丸三凱亭と落語会のはしごをしたくらいだから。
ところで同じ落語でも江戸と上方(つか大阪だよな実質。昔は京都には京都の落語があったらしいけど…)でやり方が違うように、同じ噺でも、江戸と上方では演題が違うことがある。演題だけではなく、内容も若干違ったりするけど。
内容の違いはまあ、それぞれの事情から(たとえば上方では「時うどん」だったのが、江戸ではうどんよりそばがもてはやされていたから「時そば」になってしまうとか)まあある程度は仕方がないとして、上方落語の演題を聞いてもどかしく思うのは、
演題からの謎解きの楽しみが少ない
ということである。
たとえば、江戸で「だくだく」という噺、上方では「書割盗人」という。これだけで、「あ、泥棒が出てくるんだな」ってことがわかってしまう。一方、「だくだく」じゃ一見何がなんだかわからないでしょう? これは槍を腹に突き刺されて、血が「だくだく」と出てくる(というのは実は芝居だけどね)から、とっている。「らくだ」も上方では「らくだの葬礼」、葬式のシーンがあるな、ということがすぐわかる。まあ、こっちは「らくだ」は「砂漠の船」のそれではなく、人のあだ名だから、
本当に「砂漠の船」の「らくだ」が出てくると思って言う人がいたら? 「あれ?」 とはなるだろうけど…
「長名の息子(=寿限無)」、「貧乏花見(=長屋の花見)」、「百人坊主(=大山詣り)」というあたりも、そんな気がする。考え方の違いかもしれないが、落語を楽しむ、ということは、ただ噺を聴くだけではなく、演題からどういう風な噺なんだろうな? とあれこれ想像をめぐらすのも楽しみの一つだと思う。特にネタ出しされている噺で、まだ自分が聞いたことのないものだとね。
これもわかってほしいんだけど…
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コメント
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くりにゃーざん、こんばんは。
確かにそういう面はあるのかもしれません。
でも、自分が言いたいのはそうではなく、落語会や寄席で「ネタ出し」(あらかじめ、「何をやります」と番組表に記載しておくこと)をやっても、江戸ではなぜこの演題なのかが、実際に噺を聞くまでわからないことが往々にあるのに対し、上方では当たる当たらないは別として、だいたいこういう噺だな、という見当がついてしまうことを言っているのです。
その分、楽しみが減るのは残念だ、と…
もし、上方の落語ファンがそういう楽しみ方しかしないとしたら、それって、もったいなくない? と
言う気はします。
今言ったことが的外れだったら、それに越したことはないんだけどねぇ…
投稿: ごまめ | 2008/04/03 00:29
ふうむ。
落語のことはあまりよくわかっていないのだけど、題目から内容が連想された上で、その噺を聞くことで、噺家の力量が試されているのかもしれませんね。
料理と同じでフルコースのおまかせで何が出てくるかをわくわくしながら食べる楽しみと、メニューがわかった上で、その味の良さを味わって食べるという違いのような気がします。
関西はサービスしないといけないから、題目がわかった上で、どんな噺かがわかった状態で、それでどういうふうに噺してくれるんだい、ていう聴き方なのかもしれません。
噺家にとっては上方のほうがやりにくいんじゃないかなぁ。観客からの期待感が強いような気がします。
投稿: くりにゃー | 2008/03/31 16:17