侏儒の言葉から
芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に次のようなくだりがあります。
「死にたければいつでも死ねるからね。」
「ではためしにやってみたまえ。」
たったこれだけの言葉に、いや、これだからだけだからこそ、忘れられないのでしょう。止めるでもなく、薦めるでもなく、突き放すように「ためしにやってみろ」という。会話はそこで止まり、時間までもそこで止めてしまいそうな一言のような...
時たま死について考えることがあります。でも、 実際にそう思っているときにこう言われたら、そのときはどういう行動をとるのか。言われて見なければわからないですね。勢いで死ぬか。逆に生きれるところまで生きていようと思うのか。
もっとも、そういう場面に合いたくはないですけど...
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コメント
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前略 生死は、自己の意思に関わらず起きる現象です。この私は、今生きているのか、否死んでいるのか、自分には定かではない状況なのです。二度の生死に関わる事故後、今貴方様に返信メールを作成しているこの今現在も、生きて書いているのか、死んでいて書いているのか判らぬのです。事故後、確実にこの私の内部で今まで自己を形成してた物が壊れ、日々の自己に関する現象が、人ごとかのように第三者の視点で見つめられるのです。更に元来神経質であった私が、何事にも達観視出来、飄々と日常を送れるのです。文才の無い私には、貴方様に的確な御返事を書く事は叶わぬ事、御容赦下さい。唯申したいのは、生死も含め、あらゆる事象の表裏は、繋がっており、怖楽を問う物では無いという事です。実際、今死んでいるかもしれぬ私は、苦恐もなく、はたまた生きてるかもやしれぬ私は、やがて何の前触れも無くやってくる、死に対する恐怖は全く無いのです。今、どちらの世界に居ようとたんたんと日常を過ごすのみです。これ以上稚拙な文を書きますと、貴方様に失礼になりもうすので、この辺りで筆を置きます。生死は繋がっているのです。自己や他人が試す物ではない様な気がします。では、お体に気をつけられ、日々をたんたんとお過ごしになさって下さい。気が向かれたら返信メールを下さい。宜しくお願いします。
芥川龍之介ファンの、Misty Blueより
敬具
投稿: MISTY BLUE | 2005/05/21 23:05